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OSHOについて

OSHO(1931年12月11日~1990年1月19日)は20世紀を代表する世界的なスピリチュアルマスターのひとりとして知られています。OSHOの膨大な量の講話はおよそ500冊以上の本に収録されており、翻訳書、ビデオ動画、音声などが世界各国語に翻訳されています。うち日本語に翻訳されたものは書籍だけでも廃刊になったものも含めて50冊以上と推定されます。

 

1931年12月11日、インドのクチワダにおいてOSHO(少年時代の名前はモーハン・チャンドラ・ジャイン、後にラジニーシ・チャンドラ・モハン。導師となってからはOSHOラジニーシと呼ばれるが、後にシンプルにOSHOとする)はジャイナ教の家庭の7番目の子として生まれました。

父は布地商人を営むバブラル(ダダの愛称で知られる)、母はサラスワティ。2人は厳格なジャイナ教徒でしたが、OSHOがプネーにアシュラムをかまえてからは、その地で他のサニヤシン(OSHOのもとに集い瞑想の道に目覚めた人々)とともに老後を過ごしました。2人もまた光明を得たと言われています。

                            

OSHOは学生時代から気性の強さを発揮し、大学でも教授たちをいつも質問責めにして驚かせていました。彼は21歳の時に光明を得た人となりました。1960年ジャバルプールで大学の哲学教授となり、その後、彼の精力的な「教え」の旅が始まります。

評判が評判を呼び、インド国内ばかりでなく世界中から人々がOSHOの講話に耳を傾け、彼とともにサットサン(導師の講話に耳を傾けそのスペースでともに瞑想する集い)に集まるようになりました。やがで世界ツアーが始まり、行く先々で数多くのサニヤシンたちに迎えられるようになりましたが、いわゆる国家権力による差別と偏見により暴力的な扱いを受けることもありました。とくにアメリカではオレゴンでOSHOとそのサニヤシンのためのコミューン建設が進められていましたが、アメリカ国内では違法扱いということで警察に拘束され、後に彼の健康を著しく害することとなるタウリン(放射性物質)をそれと知らされずに(OSHOはじつはそれを察知していたと思われますが、毒を盛られたソクラテスのようにあえてそれを口にしたと考えられています)体内に取り入れることとなってしまいました。

インドに帰国してマハラシュトラ州の学園都市プネーにアシュラムを構えるまで、彼に安住の地はなかったのかもしれません。しかし、プネーでは毎年秋から冬のハイシーズンとなると、世界各国からの多くのサニヤシンたちが活発に活動を展開し、世またとないようなインターナショナルで華やかなアシュラムとして栄えました。

現在はプネーのみならず、インド国内でもデリーから車で1時間ほどのところに新設されたオショーダムを始め、イタリアのOSHOミアストなど、世界数百ヶ所に大小のOSHO瞑想センター、インフォメーション・センターが存在しています。

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